コンクリのフリル

手collage・blog

帰省に於いて

f:id:frillcon:20170814230824j:image

両親が共に大阪の人間なので、このお盆に帰省している。わたしは幼稚園まで神戸に居たのだが、小学生からは東京のニュータウン住まいとなり、どちらの国(国と呼ぶほど、テンションが違うと思う)にも、正直土着愛はない。けれども出身を聞かれ「親が大阪なんです」というと「なんか分かる!」とたまに言われるような人間になった。

ちなみにイベントの仕事ばかりしていて、まともにゴールデンウィークも年末年始もなかった私は、お盆という概念も10年ぶりくらいかもしれない。イベント業界は人がお休みのとき、遊びにいける場所を動かす訳だから、一般のお休みどき=稼ぎどきなのだ。

わたしの祖父母は全員まだ生きていて、特に高校〜大学の頃、若くして親を亡くした友だちもいる中、わたしは親族の葬式に出たことがないまま大人になることが怖かった。遅かれ早かれ訪れるそのタイミングが遅くなればなるほど(もちろん長生きしてほしいのだが)自分自身が知るべき恐怖や悲しみを、知らぬまま大人になるのではないかと思い、その時が来ることを怖いと思っていた。大学の時には家の近所にあった葬儀場でバイトをしようかとも思ったこともあった(親に止められた)。

未だに友だちのお母さんや小学校のときの校長先生(わたしと誕生日が同じ、かわいい先生だった)のお葬式にしか行ったことがない。先日、去年お仕事を一緒にした方が若くして突然亡くなった。亡くなったというはっきりした報せがある前に、Facebook上で周りの方がそのようなことを予感させることを書いており、まさかと思い、その方がよく更新していたSNSを見返しては「更新してくれ」と祈っていた。しばらく信じられず、夜中に頭が冴えてしまい、その暗闇が怖かった。気持ちが落ち着かなくて、まだはっきりとした報せがない中、翌日は不安定になり、人にあたるほど泣いてしまった。結局何度見てもその方のSNSは更新されず、その人がもうこの世にはいないというお知らせが、その方の会社のアカウントから発信された。お葬式に行こうと思い、黒い服も買ったが、結局行くことが出来なかった。前日の夜に、私は友だちから結婚することになったと聞き、嬉しい気持ちになった。言い訳でしかないが、気持ちがゴチャゴチャになり、行くことが出来なかった。

そして今、祖父母は介護施設や病院に入っている。入っていないおばあちゃんも、デイサービスやヘルパーさんのお世話になっている。みんな、それぞれ私とたくさん遊んでくれた、おじいちゃんおばあちゃんたちだ。不思議なのは、彼らは無条件で、わたしや弟を超愛してくれていることで、これは本当にすごい。今日は「あと数日だと思ってください」と病院の先生に言われたおじいちゃんに会いに行った。私たちは喪服まで用意していた。どこも悪くなく頭もボケてはいない、93歳だから弱ってきたおじいちゃん。最近まで達者に自転車に乗ったり絵を描いたり大学に行き直していたおじいちゃん。行く!と豪語していた私の弟の結婚式の直前に転けてしまい、来られなくなってしまったおじいちゃん。3日前に会った両親が「また弱くなっている」と言っていた。しかしいっ時よりは持ち直したという。話そうとしてもうまく話せないようで「うーうー」と言っていたが、私を見て、ゆっくりと「1年ぶりやな。ちっとも変わっとらん」と言ってくれた。その時、このおじいちゃんにとって私は可愛いんだろうなと思った。私は自分の汚いところ、汚いことを思うところ、汚い言葉をはく自分を知っているけれど、彼はただただ私が可愛いのだと思った。もちろん孫らしく私がしていることもあるけれど、ただただ存在を応援してくれてきたのだろうと思った。

手を繋ぎながら「ゆっくり良くなってね」と声をかけたが「ゆっくり」という表現が何かすこし、間違っていた気にもなってしまった。「また来るね」と言ったら、横にいた叔父が小さく笑った。「もう、また、は無いんじゃないか」という意味合いだろう。おじいちゃんは強がってか「大丈夫じゃ」と言ったけど、たぶん大丈夫ではないのだろう。そしてそうしているうちに、おじいちゃんの息だと思うのだけれど、嗅いだことのない匂いを感じた。もう点滴のみで、口からご飯はしばらく食べていないのだけれど、ゴムを揚げたような?そんな匂いだった。初めて感じる種類の匂いだった。なにか薬剤系のものなのかもしれない。

おじいちゃんと手を振って別れ、次におじいちゃんが入るかもしれない近くの施設を見学に行ったりした。両親が老人になったら、わたしも同じことをするんだと思ったら、とても勉強になった。「2人とも超頑固な老人になりそう〜」と言うと、両親は笑っていた。笑い合ううちは平和だけど、いつか来るであろう未来。

f:id:frillcon:20170814234525j:image

そのあと、父曰く「ディープな大阪を見せたる」とのことで通天閣に連れて行ってくれた。わたしは、通天閣=ヤクザもののドキュメンタリー映画で見たなあヤクザめちゃいるんやろなあという印象だったが、父は「この裏には日本最大の売春ストリートがあるんや」と言い続け母は「娘に何いってんねん!!」と言い、ゲラゲラしていた。二度付けは許しまへんで的コッテコテ、ギットギトテンションの串カツ屋がぎゅうぎゅうにあり、街が臭かった。確かにタイやベトナムに行ったときのことを思い出す異国感があった。大阪出身の両親もなかなか近づかなかった(近づくなと言われていた)エリアらしい。通天閣に登ろうとしたが50分待ちだったので辞めた。通天閣の下では猿回しがやっていた🐒

とある串カツ屋に入った。店内は17時頃だというのにファミリーや観光客で混みいっており、賑やかだった。これで24時間営業というのもヤバイ。不思議だったのは、店に入った瞬間、おじいちゃんの病院で感じたあの匂いを思い出したこと。あんまり食べられないかもしれないな、と直感的に思ったりした。とはいえ、それなりに串カツも食べたし、とんぺい焼きというのも初めて食べた。甘めのソースとマヨネーズ、ぶよっとした小麦粉があれば、大阪の味になるのでは、と母が言っていて、そうかもなあと思った。

病院にいたのは父方のおじいちゃんであり、帰りは母方のおばあちゃんの家に戻った。明日は終戦記念日なので、NHKは戦争の話題も盛り込まれていた。お盆=終戦記念日、という印象があるのだが、お盆をwikiで見ると、当たり前か、もっともっと昔からの行事のようだ。偶然、戦争がお盆の時期に終わっただけなのか。おばあちゃんは最近、さっきまで話していたことを忘れてしまうようになったが、戦争の話はずっと覚えている。記憶については、向井秀徳展のことと合わせて書きたいこともあるのだけれど(記憶がぱつぱつ飛んでいるなあと思うことがわたしはあるのだが、向井さんはそれを歌ってくれた人だと勝手に思ってきた)、戦争は無理やりでないと忘れることができないんだろう。おばあちゃんの戦争体験を両親と聞いた。そして、お風呂に入ったその瞬間に、勘違いかもしれないけれど、またあのおじいちゃんの病室で嗅いだ匂いを感じた。タオルを嗅いだが、そこからではなかった。そこはかとなく、串カツ屋でもお風呂でも感じたあの匂いは何なのだろう。嗅いだことのない類の匂い。わたしはその匂いについて、東京でも今後感じることになるかもしれないなあと思った。また感じたときには、何かを思うことになるかもしれない、という風にも、なんとなく思った。明日は太陽の塔あたりに行って、また東京に戻る。戻ったら、また仕事が始まる。現実ではすぐイライラしたり、不安なことも多いけれど、できるだけ、優しい自分でいたいなあと思う。昨日読んだ、いろんなお味噌汁のレシピ本は楽しかった。出汁と味噌があれば、何を入れても味噌汁と呼べるみたいだ。

最後に、おばあちゃんがたくさんのアルバムを見せてくれた。わたしの母が生まれたばかりの写真や、小さい頃の写真、おばあちゃんが海外旅行にたくさん行っていた頃の写真。それらの写真と共に「◯◯(母の名前)2歳3ヶ月、散歩道で」とか最低限のメモも貼ってあった。旅行先の箸袋などを切ったものも挟まっていて、アルバムってなんて最高なんだ!と思った。記憶も絶え絶えのおじいちゃんおばあちゃんでも、きっとこれなら思い出せる。今はスマホがパーになったら、思い返せなくなる。わたしもiCloudがパンパンで困ったりしていた。昔の人は一枚一枚ポージングする習慣もあってかわいらしい。あと、おじいちゃんおばあちゃんたちはメールはダメだけど、ハガキはめっちゃ読む。父もおじいちゃんと文通をしていた。おじいちゃんやおばあちゃんの分かる、コラージュや手紙を作りたいなと思った。きっと何度も眺め、飾ってくれるかもしれない。