コンクリのフリル

手collage・blog

を待ちながら

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アゴラ劇場で観劇しました。 : を待ちながら 作:山下澄人 演出:飴屋法水 

なんでも自分自身で肯定して良い、かつ、そこにある状態は肯定するしかない、というようなことを思いました。わたしはベケットを知らない、かつ、元々苦手だった批評的に思想や感覚を抱く意識が最近またどんどんどんどん持てなくなっていることもあり、客観性のかけらもない、本当に個人的なことばかりを考えていた。

例えば、出演の荻田さんのことは、悪魔のしるしの危口さんと重ねて見ていた。彼の最後の日記を思い出していた。「脳に出血」という話では、やはり悪魔のしるしの滝尾さんのことを、本当に勝手に思い出していた。

最近、飴屋さんの「彼の娘」をサイゼで一気読みして、物凄いラブレターだと思った。山下さんの「ほしのこ」は今読んでいる途中なのだけれど、読む前に山下さんのTweetで、昆布ばばあのモデルとなった(?)、北海道の海辺を歩くおばあさんの短い動画を見てしまい、小説やフィクションがなんだとか、そういう意識が全くなくなって、山下さんの何か現実的な、もしくは強烈な何かに引っ張られた、そんなリアルな描写なのだろう、という気持ちで読んでいるところだった。飴屋さんは「彼の娘」という本媒体のそれを、演劇と呼んでいた。エッセイではなく、嘘で出来ている演劇だと。

そういう途中のあたまの状態で、アゴラに行って、それらがそのまま地続きに展開されているように感じた。なので、不条理劇だとか、そういったことは全く思わなかった。いるようでいない、ということは自然に起きていて、いた人が一瞬でいなくなってしまうこともある。そこに怒る人もいれば、それを流す人もいる。最近のTLの方がよっぽど不条理というか、いきなりガラス窓に瓶とか石を投げられるような、過激な情報(間違っていたりねじ曲がっていたり)があまりに突然、鈍器殴る的な勢いで目の前でビュンビュン飛んでいる感じがあると思う。そういう意味で、この作品はとっちらかった部分も含めて「これで、それでいいんだよ。だってそうなんだもん」と言ってくれているようで、ありのままで優しかった。くるみちゃんの「よしよし」。荻田さんの「半分に切ってくれよ」。当たり前のように痛い辛いものがいっぱいすぎて泡ぶくを吐きそうになるけれど、それをちゃんと言葉にしたっていいし、言葉にならない状態で発してもいいし、誰かにあたったって、それでしか消化できないものがあるならば、それはそうあるべき、というか、それをダメだという権利は本当は誰にもない、といったようなことを思いました。 

私は当日券で入れました。10/1までです、是非。