コンクリのフリル

手collage・blog

コラージュについて思ってきたこと💭

自分語りします。

わたしは美大を出たあと2年くらい、適当な販売員のバイトを週3くらいでゆるくやりながら実家に住み、演劇に参加させていただいたり、ライブに行きまくったり、宴会芸の派生のようなパフォーマンスユニットでライブをしたりもしたけれど、結局「誰々が大好きです!」「誰々の作品をお手伝いさせていただきました!」「誰々のパロディなだけで本気じゃありません!」と連呼しているだけで、特に自分で何かを生み出しているかといったらどうだろう、咀嚼して、それら素晴らしいものの一部であるかのような気分に浸っているだけなのでは??と思ったりしていました

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そしてこれは家を出て働かねばならないと思い、ライブハウスのブッキング(イベントを作るひと、制作とも呼ばれる)というお仕事を始めました

わたしはいわゆるロキノン厨だったので、音楽業界にいましたとか音楽に詳しいですとかそういう人間ではなく、ライブハウスにいるお客だっただけなのですが「わたしがお客ならこの組み合わせに2500円+1ドリンク出すな多分」「数年前のわたしみたいな男女がこのイベントに80人は来てくれる気がする」と自問自答というか、自分のキャッキャした音楽イベントへの感情をネタに掘り下げて、アテをつけてイベントを作っていました。ミュージシャンや業界人に知り合いもいないし、その方法しかできませんでした。

働いていくなかで憧れのミュージシャンの方とやりとりをしたり、自分のイベントに出ていただいたり、ステージ上で「今日は素敵なイベントタイトルをつけてくださって、嬉しかった。わたしの曲を聞いて考えてくださったんだとおもう」と言ってもらえたこと、本当に嬉しかった。

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と、ここまでコラージュの話になっていないけれど、自分の中で共通しているのは、

・自分が楽曲や絵画や身体表現など、素晴らしく人の心を掴むそのもの自体を作ることはできない

・素晴らしいと思えるものがある場所に身を置くことは不快ではない、できれば置いていたい

・何かを組み合わせることなら少しできる

・組み合わせられることを待っている人はいる(=自分で組み合わせられない人がいる)

・組み合わせが新しいものことを生む可能性がある

という感じのことで、わたし自身、人と人を組み合わせたり、スケジュールやお金を調整したり、その場にいるお客さんやアーティストが居心地大丈夫かガン見するみたいな仕事自体が、コラージュみたいだなあと思ったりしていました

金継ぎ体験がしたいのだけれど、わたしは食器そのものにはなれないし、あのトロトロの美しい金なんですとも言い難いので、無色の繋ぎなるものになら、頑張ればなれるかもしれないなあ、それが向いているのかもしれないなあと、ボンヤリ考えているところです。

作っていたコラージュも、いい絵やデザインや写真を生み出すちからがないので、人のものをお借りして、組み合わせていたという感じで、本当は著作権など微妙なこともあるのだろうけど、出会ったことがなかったものを出会わせることはスリリングだし、たまにアチャーということもあるけれど、意外なグルーヴになるみたいなことを、わたしは信じているのかもしれません。(こんな壮大な言い回しにする気はなかった)

自分の部屋の壁も好きなものでぺたぺたになっている。彫刻をつくったり、立体的な捉え方がおそらく苦手なので壁がこうなる。いろんな方の堕落部屋の壁バージョンが見たい。

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あと、Twitterで「コラージュ」と検索するとこのノリばかりなのだけれど↓

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個人的には↓こっちの方がtheコラージュって感じがして好き。かわいいかっこいい。

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ライブハウスをやめたあとも、イベント制作的な仕事をしていて、いろんな人に会うことは楽しい。以前はあった「誰々が好き、嫌い」もほぼなくなった。なさすぎて困るくらい。

と同時に、狭くてしあわせななんとか界隈、みたいな世界観に留まるのが苦手だったんだなあとも思った。中学のとき、誰ともにこにこやれたけど、女子の連れショングループに入ることだけには相当な拒否感があった。

と同時に同時に、やっぱりなにかのカテゴリーに自分もはまりたいなあ、もっと同カテゴリ?の友だちがほしいなあとも、ずっと思ってきた気がする。むつかしい。

そんなこんなで、コラージュ(と呼ぶことがジャストじゃないのかもしれないけど)は「生み出せないなあ」というコンプレックス自認と共にありながらも、自分はやらないよりやったほうがいいんだろうなあ(やりながら、また何かを思えるかもなあ)と、ぼんやり思えるポジションにあるような気がする。